(株)ニューキャンバス代表取締役、東京レインボープライド共同代表理事、 杉山文野さん

フェンシング元女子日本代表で、トランスジェンダーである杉山さん。

日本最大級のLGBTQイベント・東京レインボープライドの共同代表理事や、日本初となる渋谷区・同性パートナーシップ条例制定に関わり、渋谷区男女平等・多様性社会推進会議委員も務めていらっしゃいます。そして、現在は、子育てにも奮闘中!とのこと。

ジェンダー、ご家族のお話、そして、くつろぎ時間についてなど、たっぷり伺っていきたいと思います!

ナビゲーター 長谷川 ミラさん

1997年7月7日生まれ、南アフリカとのハーフでロンドンの美大(セントラル・セント・マーチンズ)に在籍する現役大学生!(現在休学中) 2017年より自身のブランド「JAMESIE」を立ち上げ若者に大人気。自身のライフスタイルを発信するYoutubeチャンネルも話題。

ナビゲーター 長谷川 ミラさん

ートランスジェンダーであり、LGBTの認知を広める活動を続けてらっしゃる杉山さんですが、体に対する違和感というものは、何歳の時からあったんですか?

ゲスト 杉山文野さん(以下、杉山) 見た目はただのおじさんなんですけどね、もともと女子高生やってましたっていうのも、鉄板のような自己紹介してますけれども。いつからそうだったんですか?って言われたら、多分ミラさんがいつから女性なんですか?みたいな質問とそんなに変わらないのかなと。

意識的にはもう、幼稚園の入園式の時には、親にスカートを履かされて、ヤダヤダって泣いて逃げていたので、いつからそうだったのって言われたら、本当生まれた時からっていう感じですかね。

ーなるほど。そうですよね。なんて質問だっていう感じですよね、失礼しました。

杉山 いや全然、失礼っていうことは全然ないんですけど。でもほら、いわゆる世の中で一般的に言われる男性女性だったりすると、なんで女性なんですか、なんで男性なんですかって問われる事ってあまりないと思うんですよね。

ーそうですね!

杉山 それはやっぱり数が多いので、当たり前とされてるんですけれども、やっぱりそのLGBTQとかの中でも、特にトランスジェンダーだったりすると、いつからそうなのかとか、男なのか女なのかっていうこと、すごく問われるんですけれども、僕は僕だっていう、それ以上でも以下でもないかなっていう感じではあるんですけれどもね。はい。

ーかっこいいです。そういった質問がいつしか無くなる為の、今のご活動だと思うんですけども。

杉山 仰る通りです。

ー小学校、中学校、高校と、女子校だったと伺いましたが、どのような幼少期を過ごされたんですか?

杉山 これでも昔はね、セーラー服を着て、ルーズソックスを履いて、学校に通ってたんですけれども。自分としては本当に、女体の着ぐるみを着ているようなと言うか。“僕”と思ってるのに、その、女子の体って何なんだろうと、自分でもよくわかんなかったんですよね。

でも幼心に、そういった事っていうのは、人には言っちゃいけない事なんだろうなと思って、誰にも言えずに幼少期を過ごして、セーラー服も絶対嫌だと思ってたけど、もし着ていかないと、一人だけ変な人と思われたら嫌だなと思って、みんなと同じ格好をして、何とか頑張って、自分を偽って学校に行ってたって感じでしたかね。

ーそうですよね。最近ですと、女性でもズボンの制服を履いて学校に行っても問題ないとか、色々変わってきてますけど、当時はそういうことは無かったわけですもんね。

杉山 実は高校からは、パンツでも良いっていうルールもあったんですけど、誰もいなかったんですよ。

ーなるほど。

杉山 誰もいなくて。その時代はですね、ルーズソックスを履いて、スカートを短くして、学校帰りに日焼けサロンに行ってみたいな。スーパーギャル世代みたいな。安室奈美恵世代なので。

ーアムラー世代なんですね。

杉山 アムラー世代なんですよ。だから皆んなスカート短くしてる中で、一人だけズボンを履いていく勇気は、その当時の僕にはなかったんですよね。

ー別のインタビューの記事で、そのセーラー服姿のお写真を拝見しました。かっこいいですね、日焼け。日サロ行かれてて。

杉山 いやでもなんか、ムッとした顔してる写真が多いですよね。今みたいな笑顔の写真はなかなかないかなぁっていう感じですけど。

ー伺ったところによると、中高生時代も実行委員や学級委員長とかをされていたそうですね。

杉山 そう運動会の実行委員とか。女子高で大変だったんじゃないかって言われると、確かに大変だった部分もあるんだけれど、逆に今となっては良かったなと思っていて。というのは何かというと、やっぱり女子高だと女子しかいないので、別に重たい荷物を運ぼうと、学級委員長だろうと、なんだろうと皆んな女子で分担しなきゃいけないんですよ。

でももし多分これ、男女共学だったら、学級委員長は男性ねとか、じゃほら重たい荷物は男子が運んで、体育で男子はサッカーで女子はって、分かれていたと思うんですよ。

それがなかったっていうのは、逆に、すごく僕にとってはよかったかなと。今となってはね、思うところもあるんですよね。

ー確かに、のびのびと過ごせそうですよね。LGBTQの方関係なく。女子校に行ってた友人とかは言いますよね。

杉山 そういった、男だからこうしなきゃいけない、女だからこうしなきゃいけないっていうのは、多分男女共学よりは少なかったんじゃないかなという風に思います。

ー女子校に小学校から通われていたということですが、ご両親が選択されたんですか?

杉山 幼稚園から日本女子大学の付属で、でも幼稚園では男女共学なんですよ。で小学校から女子高になるんですけれども、僕のおばちゃんが同じ学校に通っていたってこともあったりして。いくつかの選択肢の中からそこに。

ー結果的に女子高に入ったおかげで、のびのびと。

杉山 のびのびとしていたけれども、高校ぐらいで初めてカミングアウトをしたんですけど、でもこのまま最終学歴が女子大じゃちょっと生きていきづらいんじゃないかなと思って、その当時やっていたフェンシングの推薦で、早稲田大学に入れてもらって。

ーへー!フェンシングはいつ始められたんですか?

杉山 フェンシングは十歳の時に、小学5年生です。

ーすごい。5年生で始められて、日本代表になられて。

杉山 フェンシングって、今でこそ少し盛り上がってきているんですけど、当時は競技人口も本当に少なかったので。やるとすぐに世界が見えるよ、みたいなことを言われて。同級生のお母さんがフェンシング協会の人だったんですよ。で、文野ちゃん体力有り余ってそうだしどう?なんて言われて。

僕としては水泳も好きだったんですけど、水着が、女性用の水着がどうしても嫌で。姉がいるんですけど、お姉ちゃんがバレエをやってたから、バレエやれって言われたんだけど、レオタードは勘弁してくれよと。

で剣道を始めたんですけど、女の子だけが赤胴に白袴。男の子はみんな黒胴、黒袴なのに、女の子だけが赤胴なのがどうしても嫌で辞めちゃって。

バレーボールもブルマ嫌だしなー、テニスもスカート履くの嫌だしなーっていう時に、フェンシングは男女でユニフォームの差がなかったっていうのが、フェンシングが続いた理由なんですよ。

ーそうなんですね。スポーツウェアで今言われてみれば。バレーボールもブルマがあって、剣道でも胴の色が違っていて、気づかないうちに、男と女っていう差別化されてたんですね。

杉山 そう。結構ね、本当に無意識のところにあって、しかも別にどこにも悪気がないんですよね。だからすごく気づきにくいんだけれども。

特にスポーツっていうのは、強い男性を育成するっていう事を目的に、発展してきた時代背景があったりもするので。男性女性を分けるっていうのがすごく強い世界でもあるんですよね。

ーなるほど。強い男性を育てるっていう、それ知らなかったです。

杉山さんは現在日本フェンシング協会で理事を務めていらっしゃるという事ですけども。そういった思いもあるんですかね?

杉山 日本フェンシング協会と、日本オリンピック委員会ですね。JOCの理事にこの6月からなることになったんですけれども、僕としてはですね、実は、フェンシングすごい好きだったんですけど、どうしてもこの自分との性別との折り合いもつけられなくて、逃げるように辞めちゃったっていう、ちょっと苦い思い出もあって。

というのは、今お話したように、スポーツ界ってすごく男社会が強い中で、マイノリティである自分が居場所を見つけるって、すごく難しいことでもあったんですよね。ホモだ、オカマだ、っていう言葉が当たり前のように飛び交っていたりする中で、自分がセクシャルマイノリティだってバレたらチームに居場所がなくなっちゃうんじゃないかなとか。

“僕”と思ってるのに、女子の代表として出ている自分に対して、その当時はもちろんホルモン投与とかしていないですからドーピングにも何も引っかからないんですけど。

でもなんかこう、自分の居場所が感じられないような気がして、カミングアウトもなかなかできなくて、結局引退しちゃったのが25歳だったんですけれども。

でも、その後にこういった社会活動に関わるようになって、15年フェンシングの選手やって、卒業してから15年間こういう社会活動に関わって、ちょうど40歳になる年に、この30年分の経験を生かして、新しいフィールドにチャレンジできるっていうのはすごく嬉しいなと。なのでまぁ、スポーツ界の多様性推進とか、心理的安全性の向上っていうところに関われたら、自分としては嬉しいなという風に思って、はい。この度やることになりました。